top of page

<SHORT ESSAY>キッチンがあるということ



食事は、子どもでも大人でも、誰にとっても毎日欠かせないものだ。けれど働いていると、この時間はつい「手早く済ませるもの」になりがちでもある。栄養を摂るための時間として処理されてしまうことも多い。

もちろんそれも大事なのだけれど、食事にはそれだけではない役割があるのだと思う。作ること。囲むこと。会話すること。そうした一連の時間の中に、人と人との距離を少しずつ縮める力がある。


森のオフィスには、大きなキッチンがある。振り返ってみると、最初から明確な思想を持ってつくったわけではなかった。物件を初めて見た時にキッチンもあったので、「おお、大きなキッチンですね〜。再利用したらイベントとかで便利!」ぐらいの印象だった。だから当初は、ここまでこのキッチンが場の性格をつくるとは思っていなかった。

けれど立ち上げて間もない頃から、ワークスペースの中に大きなキッチンがあることの意味を、じわじわと感じるようになった。まだ森のオフィスを訪れる人も多くなかった時期、来てくれた人たちと食事をともにする時間は、オフィスを始めた経緯やこれから目指したいことを話したり、相手のことを知ったり、この町の魅力について語ったりする機会になっていた。


立ち上げ当初は、とにかく森のオフィスで過ごす時間そのものが長かった。自然と夕飯まで一緒に食べることも多くなり、みんなで鍋を囲んだり、地元の食材を持ち寄って料理したりすることもあった。そういう時間は、仕事の打ち合わせとはまったく違うかたちで、人との距離を縮めてくれる。言葉にすると少し大げさかもしれないが、心理的なつながりを育てる時間だったのだと思う。

その後、飲食店を開きたい人の相談に乗るなかで、コワーキングキッチン会員制度も生まれた。これから店を始めたい人にとっては、小さく試しながら経験を積み、将来のお客さんと出会うための入口になる。実際に、ここをきっかけにお店を始めた人もいる。キッチンが単なる設備ではなく、誰かの挑戦を支える装置にもなっていった。


今ではお昼になると、コワーキングスペース側で仕事をしていた人たちが自然と集まってくる。お弁当を広げる人もいれば、食材を持ち寄ってその場で支度を始める人もいる。そして気づけば、同じテーブルでみんな一緒に食べている。




そこにいる人たちは、それぞれまったく別の仕事をしている。共通しているのは、「ここを仕事場として使っている」ということくらいかもしれない。けれど、一緒に食事をしながら雑談をしていると、少しずつ別の共通項が見つかってくる。暮らしている地域、関心のあること、家族のこと、最近考えていること。仕事だけでは見えない輪郭が、食事の時間のなかでは自然に立ち上がってくる。




利用し始めてまだ日が浅く、知り合いが少ない人もいる。そんなとき、運営スタッフがさりげなくキッチンや食堂のほうへ声をかけ、一緒に食べる機会をつくることがある。ほんの少しのきっかけだけれど、その積み重ねによって、その人は徐々にこの場に溶け込んでいく。


良質なコワーキングスペースの真髄は、心理的安全性の高さにあるのだと思う。安心していられること。気負わず声をかけられること。自分のままで過ごせること。そうした感覚があってこそ、人はこの場をただの作業場所ではなく、自分の居場所として感じられるようになる。

そして面白いのは、その心理的安全性を支えているものが、必ずしも「仕事」そのものではないということだ。むしろ仕事の外側にある、食べることや作ること、たわいのない会話のような時間が、場の土台をつくっている。ワークスペースの価値を高めているのが、ワーク以外の営みであるというのは、考えてみるとなかなか興味深い。


森のオフィスにキッチンがあるということ。それは単に料理ができるということではなく、人が自然に混ざり合い、関係を育み、安心してここにいられるための、大切な仕掛けなのだと思っている。



書き手:津田(森のオフィス 運営代表)

 
 
 
bottom of page